5. 赤松円心縄張り説
まず、橋本氏の言う赤松円心が縄張りを定めた元弘三年の様子はど
うであったのでしょう。
円心が護良親王の命を受けて本拠地赤松村に近い苔縄(こけなわ)
山に臨時の城を構えて挙兵したのが、元弘三年正月二十一日。円心
に呼応して国中から千余騎の兵が集結。
円心ははじめに高田城(赤穂郡上郡町)の高田兵庫助を討つ。続いて
船坂峠で備前三石城の伊東宣祐(のぶすけ)を打ち破り、さらに山陽
道を東進して摂津摩耶山に摩耶山城を構える。小平野・兵庫嶋合戦
(閏二月十五日)、尼崎合戦(同二十三日)、坂部村合戦(同二十四
日)、六波羅の大軍を破った摩耶山合戦(三月一日)と続いた。この
ような時に、とても姫山に縄張りを定める時間的余裕はなかったはず
である、と石田氏は言う。橋本氏はこの点について次のように述べて
います。
”この時則村はその子範資、貞範、則祐と相謀り、途中この姫山
に縄張を定め、一族小寺相模守頼季をしてこれを守らせた。蓋し
則村は、当時六波羅の催促により西国の兵の上洛せんことを最も
怖れたから、山陰山陽の咽喉を扼する究境のこの地を撰んで、更
に縄張をなし、第二段の備をなしたものであろう。
縄張の区域、規模などは詳でないが、この頃の城は後世の所謂
(いわゆる)止阻堡(しそほ)的の小規模なもので、二三の削平
地を設け、それに砦、塀、垣、柵などを築いたに過ぎない。然も
この時は単に縄張を定めたまでであるが、この時代には寺院に防
備を施して一時的城郭に利用した例が多いから、恐らくこの姫山
の縄張も、山上の称名寺を利用したものであろう。"
「私は、恐らくそれもなかったと思う。」と石田氏。
円心が築いた城は、苔縄山、白旗山、摩耶山などの険しい山に構えた
城であって、とても標高わずか50メートルにも満たない姫山に着目し
たとは思えない。
つまり、”円心縄張り説は、姫路城が山陽道をおさえる重要な城
となった秀吉以後の常識を赤松円心の時代にまでさかのぼらせて、
円心ほどの戦上手が姫山に着目しないはずはないと考えて創り出
された物語であった、として誤りないであろう。”
と断言しています。
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