6. 赤松貞範築城説(橋本)
元弘の乱で北条氏が亡び、鎌倉幕府が消滅すると後醍醐天皇は
戦功のあった者に恩賞を望みどおりにとらせようと言われた。
しかし、円心に対してはわずかな所領を与えただけで、円心は
大いに失望した。
その後、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した時に、かねてより
恩賞に不満を抱いていた円心は尊氏側につきました。尊氏たちは
官軍を破り京都に入り光明天皇を擁立しました。一方、後醍醐天
皇は吉野に下り、ここに南北両朝分立の端が開かれました。
尊氏は室町幕府を開き、後醍醐天皇は吉野において崩御されます。
しばらく平穏な日々が続きましたが、北畠親房が吉野に入り後村
上天皇を奉じて勢力の回復を図ります。これに呼応するように山
陽、山陰、南海、西海、北陸に南朝方の勢力が台頭してきます。
その形勢は予断を許さないものとなってきました。
このため、円心は子の貞範に城を築かせ、白旗城および範資の摂
津尼ヶ崎城と共に南朝方の勢力に対抗することにしました。
以上が姫路城築城に関わる時代背景の大まかなところです。
中世姫道山には、天台宗寺院称名寺や地主神の刑部(長壁)明神、
天満宮(姫道天満)がありました。
姫道山に城を築くにあたって称名寺(現在は正明寺)は姫道山の
麓に移転され、さらに池田輝政が城下町を建設する時に今の姫路
市五軒邸(ごけんやしき)に移されました。
ということは、称名寺が移転された年代がわかれば、姫路城築城
の時期を知る上で大きな手掛かりとなるはずです。
橋本説によると貞和二年(1346)に赤松貞範が築城したとなってい
ます。この貞和二年という年号はどこから来たのでしょう?
橋本氏はこの根拠を正明寺境内にある供養塔に求めました。この
供養塔は高さ226cm、幅61cm、厚さ29cmの流紋岩質凝灰岩の
石柱で「板碑」として兵庫県指定文化財になっています。もと称
名寺があったと思われる辺りから発掘され、明治九年正月に正明
寺境内に移し建てられたそうです。この供養塔について、橋本氏
は貞範が築城の際に称名寺を山麓に移し、山上にあった墓碑を取
り除き、その供養のために建てたものであると解釈しました。
供養塔の正面右には「右造立供養為者有縁無縁」とあり、左には
「法界衆生平等利益故也」と刻まれています。正面中央下部には
「貞和二年歳次丙戌五月九日一結衆等敬白」とあります。しかし、
称名寺移転に関する具体的な記述は見当たりません。石田氏の見
解はこの供養塔は寺の移転とは関係がないとしています。
一方、貞和二年という年は播磨のみならず畿内全域が合戦もなく
落ち着いた年であったといいます。この点では、貞範が築城する
時間は十分あったといえるようです。
ただ、貞範は姫路周辺に所領をもっていなかったらしいと石田氏
は言います。
”貞範に限らず、赤松氏は姫路付近にはほとんど所領をもっ
ていなかった。赤松氏がやや不便な坂本城を守護所としたの
も、要するに姫路に所領をもたなかったためであった。貞範
の春日部家(丹波国春日部荘を拝領したので春日部家という)
は、美作国守護職を失ってのちは守護になったことがなく、
将軍の側衆として京都で生活することが多かったから、その
点からも貞範築城の根拠は薄い。同様に円心の長男範資の七
条家(円心の京都七条の屋敷を相続してそこに住んだので七
条家という)も可能性がないから、もし円心の子で築城する
可能性の残るのは、赤松氏の家督を継いだ三男の則祐だけと
いうことになるが、則祐が姫山にもし築城していれば子の義
則が坂本城を別に築いてそこを守護所とする理由が説明でき
ないから、則祐も築城したとは考えられぬことになる。”
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