8. 赤松貞範築城説(高坂)
ここで、もうひとつの赤松貞範築城説を発表されておられる
高坂好氏の説を紹介しておきましょう。
”姫路は、中世では「国府庄」(こうしょう)ともいい、
その東隣にあった志深庄(しぶししょう)は、定家の甥
の言家の所領であったので、『明月記』によくその名が
見える。『安積文書』の文和四年(正平十年、1355)
二月、則祐が幕府に執進した安積盛兼の申状に、盛兼の
所領が「安積保下司・公文両職并三方西公文職・姫辺村
田畠事」と見えている。この姫辺村が姫路のことである。
元弘三年五月の尊氏から与えられた盛兼の安堵状には、
姫辺村は見えないから、安積氏が赤旗一揆に属し、貞範
の旗下に入ってから、これを領するようになったらしい。
姫辺の名がほかに見えるのは、貞範の築城に際して姫山
から移され、市の郷の御霊社に合祀された姫辺天満宮が
ある。
姫路城の築城年代について、橋本政次氏は、『播諸城交
替連綿之記』および貞和二年銘の称名寺供養塔により、
その年代を貞和二年とされたが、これは築城のため、城
山の寺院や神社が移建され始めた年であろう。『海老名
家譜』には、「光明院御宇貞和五己丑年春、赤松筑前守
貞範、飾東郡姫路ニ於テ始メテ城郭ヲ築キ畢(おわ)ン
ンヌ」とあり、これを信用すべきであろう。”
海老名氏とは現在の相生市に勢力を持っていた豪族です。
『海老名家譜』によると建武三年(1336)、赤松円心が白旗
城を構えた時、海老名景知は新田義貞の軍勢と戦った時に城
中の重要文書を焼失してしまったので後に文書焼失の証判を
願い出ています。その時の書状に「文書紛失承候畢、康永二
年八月日、雅楽助貞範(花押)」とあり、当時海老名氏が赤
松貞範に属していたことがわかります。『海老名家譜』も焼
失してしまった元の文書を根拠に書かれたものであろうと思
われるから、貞和五年赤松貞範が姫路城を築城したという記
述も正しいであろうと高坂氏は書いておられます。また、
”この年は、円心が備後の直冬に備えるために急ぎ下国
した年であるから、貞範がかねて準備していた姫辺(ひ
めじ)の城を、急ぎ築いたと考えられるではないか。”
と述べておられます。
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