9. 赤松貞範築城説は否定されるか?
以上、橋本氏および高坂氏2つの赤松貞範築城説を紹介して来ま
した。私にはこれらの説をみて「フーン、なるほどね」としか言
いようがありませんが、石田氏はこの2つの説に疑問を抱いておら
れます。それは何故かというと、それぞれの説の根拠としている
古文書の信憑性に問題があるというのです。橋本説は『赤松家伝
袖ノ記』と『播磨鑑』など、高坂説は『海老名家譜』を元に展開
されています。『赤松家伝袖ノ記』がいつ書かれたのか、私は調
べていませんのでわかりませんが、『播磨鑑』は、宝歴12年
(1762)頃に書かれています。また『海老名家譜』は石田氏によれ
ば近世中期を遡ることはできないとされています。つまりずっと
後世になってから書かれているので、その内容には疑問符がつく
というのだと思います。しかしこれによって完全に否定してしま
うこともできないでしょう。この辺りが難しいところですね。
では、石田氏はどのように考えているのでしょう。
”赤松貞範築城説がなりたたないとすれば、小寺頼季城代
説もまた成立し得ないことはいうまでもない。『姫路城史』
が描いた、頼季--景治--景重--職治の小寺氏四代というの
も、根拠のある説ではないし、嘉吉の乱で赤松氏が滅亡した
のち、播磨守護になった山名持豊が姫路城主として入った
というのも、事実ではない。持豊が播磨支配の拠点にしたの
は、赤松氏時代からの播磨守護所であった坂本城であって、
決して姫山城ではなかった。”と石田氏は言います。
彼によれば、確実に信用できる史料のみで当時の様子を推測すれ
ば、次のようになるとしています。
”姫道山に最初に城郭を構えたものは、もし古い時期に想
定するならば小河氏以外には見出せない。その時期は国衙
の小目代で守護代の下で目代をも兼ねた光阿の時代と考え
てよいであろう。”
”もし時期をいま少し下げて考えると、赤松政則であれば
姫山に築城し得たかも知れない。”
その理由として文明六年(1474)の浦上則宗の書状を挙げてい
ます。そのなかに「姫地称名寺領田地段在所府中守護屋敷内」
という語が見える。つまり、府中に守護屋敷があり、赤松一門
がその土地を称名寺に寄進しているので、そこに政則が城を築
いていても不思議ではない。しかし、その規模は小さな砦のよ
なものだっただろう。というのは、天文二十四年(1555)、小河
氏の所領を継いだ上月里軒という人物が姫路山を称名寺新発智
に売却しています。その区域は姫山の殆どだったらしいのです
が、もしそこに城があれば土地を売ってしまうとは考えられな
い、というのです。
では、姫山に確実に城があったことを伝えている史料はというと、
それは、永禄四年(1561)の姫道村助大夫の畠地売券の文面に見
つけることができます。助大夫が売った土地は「姫道御構東門之
口、妙楽寺ノ西」にあったという。この「姫道御構」が姫山にあ
った城にまちがいはない、と石田氏は指摘しています。
この永禄四年というのは、黒田職隆、重隆父子が城を大改修した
という年です。
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