12. ルメイの決断

 ルメイは、3月4日の中島飛行機武蔵製作所への第8回目の空襲を最後に、それまでの戦
術を一変させた。
 第21爆撃機集団の活動は、いよいよ第二段階へと移っていった。マリアナ基地に配備さ
れていたB29は、1944年11月24日の段階では119機だったものが、1945年3月9日現在
には385機を数えるまでになっていた。
 1945年3月10日の東京市街地への空襲はその後の日本の運命を決定づけるものとなった。
ルメイが打ち出した戦術は、当のB29搭乗員達にも大きな衝撃を与える程の大胆なもので
あった。B29の爆撃高度は、今までの高々度(7,600m〜10,000m)から低高度(1,500
m〜2,100m)まで一気に引き下げられた。一般に高度を下げることは敵の反撃を受けや
すくなり、味方の損失が増えることを意味する。
 次に、攻撃は昼間ではなく夜間空襲することになった。多くの搭乗員達は夜間飛行の経
験はあったが、夜間空襲は初めてだった。一番の気がかりは、B29の尾部にある機関銃以
外の火器用の弾薬を積み込まないことであった。自分達の身をどうやって守ればよいのか
不安な搭乗員達とは裏腹に、ルメイには勝算があった。
 まず、高度を下げることによって厄介なジェット気流の影響を受けなくなる。レーダー
反射波の信号強度は、高度が低い分強くなり、映像も鮮明になる。燃料を多く使う高々度
飛行と編隊飛行を止めるから燃料消費が押さえられる。その分爆弾搭載量が増える。低高
度を飛ぶとエンジンにかかる負荷が少なくなり、整備にかかる時間が軽減する。最後に、
低高度からの爆撃は精度が向上する。すべてに於いて好結果が期待できた。
 マリアナ基地に駐留する3航空団のB29のうちから325機がこの新作戦に参加した。その
中の279機が第一目標の東京市街地へ100%焼夷弾だけを投下した。その量は1,665トン。
ルメイが編み出した絨毯爆撃法が取り入れられた結果、一夜に15.8平方マイルが焼失し、
およそ10万人の犠牲者が出た。ドレスデンを凌ぐ災禍は、アメリカをして『未だかつてこ
れ程までに生命財産を犠牲にした空襲はなかった』と言わしめた。
 アメリカは、日本側がアメリカの戦術変更を悟り、低高度で作戦行動をとるB29に対し
て有効な防御手段を講じる前に、東京の次は名古屋、大阪、神戸そして再び名古屋と1晩
につき1都市を空襲することを決定した。
 3月10日から19日までの10日間で延べ1595機(過去3ヵ月半のB29の総出撃機数の75
%にあたる)が出撃し、焼夷弾9,365トン(過去3ヵ月半の投下爆弾総量の3倍にあたる)
を投下した結果、日本軍需産業の密集地域32平方マイルは焼け野原となった。片や、B29
搭乗員の損失は0.9%に過ぎなかった。
 日本の4大都市にわずか10日間で大打撃を与えた一連の「電撃作戦」の成功は、日本の
都市工業地域が焼夷弾攻撃に極めて脆いことを現実に証明した。
 アメリカは、日本本土上陸作戦を決行する前に日本を降伏させるため、残存した重要工
業地域への大規模焼夷弾攻撃を着々と準備していった。アメリカ本国ではB29の生産が軌
道に乗り、近々マリアナ基地へ600機が増派される予定であった。既にマリアナ基地に配
備されていた機数と合わせると1,000機の大台に手が届く勢いである。通常爆弾を使って
軍需施設を破壊する昼間精密爆撃も併せて実行されることが決定した。
 今までの精密爆撃と違い、爆撃高度が従来より低く(3,700m〜6,100m)設定された
ことにより、爆弾搭載量が増え、風や雲に影響を受けることが少なくなったため目視爆撃
の機会が多くなり、爆撃精度は向上した。
 日本上空の天気予報が晴れなら軍需施設への昼間精密爆撃が計画され、そうでない場合
は都市工業地域への焼夷弾攻撃と異なる二つの攻撃が並行して進めらることになった。
 ところが、ここでアメリカ側に思いもかけない落とし穴が待ち受けていた。4大都市へ
の「電撃作戦」を実行した結果、わずか10日間でマリアナ基地に貯蔵していた焼夷弾を
使い果たしてしまったのである。そこで、新しく焼夷弾が補充されるまでのおよそ3週間、
マリアナ基地からの攻撃は軍事目標に対しての精密爆撃にとりあえず限定された。

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