15. 姫路市街地空襲の経緯

 太平洋戦争に於いて、B29の夜間焼夷空襲に対する日本側の防御策のひとつとして、燈
火管制はほぼ完璧に実施された。だが、レーダーを使って爆撃するB29の前では、それも
空しい努力に終わった。科学の発達により、たとえ目標上空に厚い雲がかかって目標が見
えなくても、その雲の上からレーダーによって目標を捕捉し攻撃することが技術的に可能
な時代になっていたのである。
 昼間に通常爆弾を使って軍需工場などを爆撃する、いわゆる昼間精密爆撃では、目標が
目視できるか否かは重要なことだったが、夜間空襲に関しては、最初から目標は見えない
ものであるという前提であった。
 攻撃側からすると、燈火管制で目標地域が真っ暗ということは、街の灯りで自らの機体
が照らし出される心配がないことにもなり、それはかえって好都合でもあった。
 何も知らない当時の一般市民に出来ることと言えば、日本軍部の命令通りに、もはや時
代遅れとなってしまい、ほとんど無意味であった燈火管制を実行するぐらいしかなかった。
 しかしながら、レーダーといえども万能ではなかった。レーダー爆撃時に於ける最も重
要でかつ困難な問題は、レーダースコープに映し出される映像をどのように読み取るかで
あった。スコープ上の映像はすべてが実在するものとは限らなかった。レーダー反射波の
相互干渉作用による虚像が映ったり、目標地点の地形によっては映像を判読するのが不能
ということもあった。事実、地理的条件のため、レーダーによって捕捉するのが困難とい
う理由により夜間空襲を免れた都市(八幡市は昼間爆撃を受けた)もあった。
 さらに細かいことを言えば、スコープを覗き込むレーダー手の視線の角度や、スコープ
からどれくらい離れて見るかによっても爆撃精度に影響は及んだ。スコープ上のわずか1ミ
リが、地上では何百メートルもの誤差になる計算である。
 このような事情で、B29に搭乗するレーダー手には相当な熟練度が要求された。レーダ
ー機器の能力を最大限に生かすためには、各個人が必ず持っている特有の癖は出来る限り
排除されなければならなかった。
 個々のレーダー手の技量は千差万別のため、一つの航空団の中から特に優秀な人材(best
radar crews)を12名選抜し、各1名ずつを計12機のB29に搭乗させた。
 これらは先導機(pathfinder aircraft)と呼ばれた。
 12機の先導機は主力部隊より一足先に離陸し、野戦命令書(FIELD ORDER)によって予
め定められた爆撃中心点(Mean Point of Impact 以下 M.P.I.)へ正確にAN-M47A2 100
ポンドI.B.(Incendiary Bomb ナパーム焼夷爆弾)を投弾して、すぐには消せないような
火災を発生させるという重要な役目を課されていた。
 この火災は後に続く主力部隊のために正確なM.P.I.を指し示す為のもので、そう簡単に
鎮火されては困るのである。
 後続主力部隊は、この火災を目印にE46 500ポンドI.C.(Incendiary Cluster 集束焼
夷弾)などを投下して目標地域の有りとあらゆるものを焼き払っていった。作戦の成否は、
ひとえに先導機の双肩にかかっていた。
 作戦任務報告書(Tactical Mission Report 以下T.M.R.)によると、昭和20年7月3日
マリアナ基地から出撃した航空団の数は4つであった。攻撃された都市は、姫路をはじめ
とする高松、高知、徳島の4都市。つまり、ひとつの航空団につき1都市がターゲットと
して割り当てられたのである。マリアナ基地とは次の飛行場をまとめた総称である。
          第58航空団---テニアン西飛行場
          第73航空団---サイパン・イスレー飛行場
          第313航空団---テニアン北飛行場
          第314航空団---グアム北飛行場
          第315航空団---グアム北西飛行場
 7月3日当日のマリアナ基地の気象条件は、雲量3/10-5/10の低い雲があり、その雲
底は2,000フィート、雲頂は6,000フィートであった。マリアナ基地地方にはにわか雨
が降り、所々に高い雲が広っていた。サイパンでは北北西の風が吹き、その風力は4〜8
ノット。グアムでは無風状態。視界は無限大であった。これらの気象条件はB29の離陸に
別段影響を与えることはなかった。
 基地を出撃した4航空団のうち第313航空団が先頭を切って030723Z(日本時間7月3
日16時23分)に離陸を開始した。
 その他の航空団はそれぞれ第58航空団が030940Z、第73航空団が030922Z、第31
4 航空団が030845Zに最初の先導機が飛び立っていった。
 先導機の数は1航空団につき12機で計48機、主力部隊の出撃予定機数は4航空団合わ
せて464機であった。総計512機のうち第58航空団の1機は離陸直後にテニアン西飛行
場から2マイル離れた海中に墜落、乗員12名のうち11名は死亡、救出されたのはたった
1人であった。同航空団の別の1機はエンジン不調のため離陸に失敗、ブレーキをかけた
が間に合わず滑走路を飛び出した。このように様々な理由で4航空団合わせると計11機
のB29が離陸出来なかった。
 無事離陸したB29のうちレーダーが満足に稼働していたのは491機であった。レーダ
ーが不調であっても、B29には天測窓が取り付けてあったので飛行は可能だった。ある
いはレーダーが正常に働いている機の後をついていったのだろうか。
 姫路へ向かう第313航空団のB29は、次々とマリアナ基地のテニアン北飛行場を離陸
していった。同航空団の手持ち機数131機のうち、当日攻撃に参加した107機のB29す
べてが出撃し終わるには1時間26分を要した。離陸間隔はおよそ1分という超過密スケ
ジュールであったが、B29がマリアナ基地から出撃できるようになった当初は、もっと
短い45〜50秒間隔で離陸しなければならなかったことを考えると、まだ恵まれたほう
だった。今回ではなかったが、離陸に手間取ったB29同士が地上で激突炎上する事故も
実際に発生していた。
 個々のB29は、離陸したのち直ちに高度4,000〜8,000フィートまで上昇し、ひとま
ず硫黄島を目指して飛行した。硫黄島が米軍の手に落ちるまで、B29は同島上空を避け
て通る航路をとっていたが、日本軍との戦闘がまだ繰り広げられていた1945年3月4日
には、東京空襲に出撃しダメージを受けた1機のB29により初めて同島への不時着が決
行された。
 マリアナ基地と日本のほぼ中間に位置する硫黄島は、重要な位置確認地点であると同
時に、3月4日以降2400回以上にものぼるB29の不時着を支援し続けた重要拠点だった。
 第313航空団先頭のB29が硫黄島上空を通過したのは031100Z(日本時間7月3日20
時00分)のことであった。その1時間10分後の031210Zには最後尾の機が同島上空を
通過し終えた。硫黄島通過後にB29の一団は雷に遭遇している。しかし、幸いにも機体
に落雷したという報告はなかった。また、雲の近くでは軽い乱気流が観測された。基地
を離陸したB29はあえて編隊を組まない(No assemblies were made.)ことになってい
たので実際どのように隊列を組んでいたのかはわからない。
 日本本土への巡航は、高度約4,000〜4,800、6,000〜6,800、8,00〜8,800フィー
トに於いて行われた。B29の集団化は巡航スピードおよび高度に変化を付けることによ
って実施された。
 当日出撃した4航空団すべて合わせると長さ何千キロにもおよぶB29の列が真っ暗な
太平洋上を一路四国目指して北上し続けていった。
 硫黄島上空を通過したB29は、関東、東海地方を目指すときは富士山を目標にした。
もうひとつの航路は四国を目指して北上するものがあった。この二つの主要航路のこと
をB29の搭乗員の間では誰言うとなく『ヒロヒト・ハイウエイ』と呼んでいた。
 余談になるが、日本近辺上空で吹いている強烈な偏西風(ジェット気流)が今日広く
一般に知られるようになったのは、B29が日本来襲時に発見したからである。
 より詳細な航路を決定するには、半島の突出部や入り江、小島などレーダーによって
容易に確認できる地点をたどりながら目標上空へと侵入して行く航法をとった(地文航
法)。
 目標に対する最終的な侵入航路を決定する地点(爆撃コースの出発点)を攻撃始点
(Initial Point of Attack)と呼び、この点から目標への方位は真北を0度とし、東を90
度というように角度で指定し、これを攻撃軸(Axis of Attack)と呼んだ。
 攻撃始点から目標までの距離を爆撃航程(Bombing Run,Length of Run)、所要時間
を飛行時間(Time of Run)と呼んだ。
 攻撃始点、攻撃軸、爆撃航程が決まればそれに従って飛び続けていくと目標上空へ到
達できるはずである。しかし、実際には風による偏流(drift)を修正しながらの飛行とな
った。
 それぞれの航空団の目標は異なっていたため、四国への上陸地点は自ずと違っていた。
 第313航空団は、日本本土への取りかかりとして四国南東部、徳島県牟岐町沖合にあ
る大島(北緯33度38分、東経134度29分)を絶好の位置確認地点として選択した。
 テニアンを飛び立ってから7時間後の031426Z(日本時間7月3日23時26分)に、最
初の機が大島上空に姿を現した。ここで洋上飛行による航路の誤差を修正したB29は、
次に四国北東部、香川県志度町にある馬ガ鼻(北緯34度21分、東経134度15分)に向
けて飛び続けた。第313航空団はここを攻撃始点とした。
 攻撃始点の馬ガ鼻から攻撃軸の角度を38度(おおよそ北東)にとった第313航空団は、
41.5マイル先の目標である姫路市街地を目指した。その途中、小豆島の南東部大角鼻上
空をかすめ、家島諸島の上空では、B29の行く手を阻ばもうとする地上からの対空砲火
(貧弱、不正確、中口径高射機関砲および大口径高射砲による)に遭遇した。
 第313航空団が南西から姫路へ侵入するこのコースを選んだ理由は、瀬戸内海に点在
する島々が格好の位置確認地点として利用出来るからであった。もうひとつの理由は、
姫路の東に位置する明石および神戸からの対空砲火を避けるためでもあった。
 米軍は、事前に姫路市街地空襲に於る日本軍機による迎撃機数をおよそ20〜25機と
予想していた。実際には、目標付近の上空で日本軍機12機を視認し、彼らから計8回の
攻撃を受けた。
 この時、B29は50口径(12.7ミリ)機関銃で応戦し、弾薬110発を消費したことがT.M.
R.に記載されている。この機銃掃射によって日本軍機に損害を与えたという申告はなかっ
た(No claims)。
 当時、日本軍は夜間戦闘機をそんなに多くは持っていなかった。日本軍機による攻撃
は、おそらく、焼夷弾で燃え上がる街の炎に照らし出されたB29をめがけて加えられた
ものであろう。
 T.M.R.の付篇E(Annex E)、集約統計表(Consolidated Stastical Summary)に爆撃
航程表(Bombing Run)という項目がある。ここには目標の名前、目標に投弾した機数、
投弾開始および終了時刻、投弾高度、目標が目視できたか否かがまとめて記載してある。
 この中に次のような不自然な記述が見られる。第313航空団の先導機の投弾開始時刻
1450Z、終了時刻1627Z。つまり、真っ先に目標に対して投弾し終えていなければなら
ない先導機が投弾に1時間37分かかっていたという意味である。
 姫路と同じ夜に焼き払われた他都市の場合を見てみると、高松(1759Z-1818Z)、高
知(1654Z-1708Z)、徳島(1624Z-1653Z)で、およそ15分から長くても30分で先導
機の投弾は終わっている。姫路市街地空襲に参加したすべてのB29が投弾を終了した時
刻は1629Zだから、そのわずか2分前に先導機がやっと投弾を終えたことになる。姫路
の場合、先導機の投弾所要時間は異常に長い。これは単なる誤記なのだろうか?
 T.M.R.の各項目をよく見てみると、単なる誤記ではない可能性を示唆しているように
思える。
 付篇Aの第5部-レーダーの項目(1. Radar Bombing, AN/APQ-13)に、Number of
set failures in lead A/C: 1と書いてある。つまり、1機の先導機のレーダー(AN/APQ
-13) が故障していた。
 このレーダーは、全方位を映し出せる航行用のもので、夜間爆撃時には照準用として
も用いられたものである。
 前出の付篇E、爆撃航程表内に、先導機が目標にどのように接近していったかが記載
されている項目から、第313航空団の先導機11機はレーダーを使用し、かつ目視による
修正を加えながら目標に接近していき(RADAR RUN WITH VISUAL CORRECTIONS)、
残る1機は目視のみにより接近したことが判る(VISUAL SIGHTING ONLY)。以上のこと
から次のような推測が成り立ちはしないか。
 当時、B29は度重なる出撃のために機体の整備が追いつかない状況で、不完全な状態で
飛び立たなければならないということもあったようである。また、全機が離陸するまで1
時間半近くかかったことをみると、エンジンをかけた状態で長時間待ち続けなければなら
なかったB29も当然あったであろう。待機中にエンジンが不調になり離陸不能に陥るB29
が出ることも珍しいことではなかった。機体の問題以外に電気系統の故障も少なくなかっ
た。生命線のレーダーが不調にもかかわらず出撃していった機もあった。
 先導機が特別の役割を担っていたことを考慮すると、機体の整備や電気系統のチェック
は最優先されたはずである。離陸時にはレーダーは正常に作動していたと考えたほうが自
然であろう。レーダーの異常がどの時点で発生したのかは不明である。
 また、先導機の投弾終了時刻から想像されるのは、レーダー以外に、機体、おそらくは
エンジンの異常が発生していたのではないかということだ。一足先に離陸した先導機が最
後尾の機とほとんど同じ時刻に投弾終了していることは、エンジン不調のため機のスピー
ドが上がらず、徐々に後退していき、その位置にまで下がって来ていたことを意味してい
る。異常が発生したのは硫黄島上空通過後であろう。硫黄島通過前なら同島へ着陸したは
ずである。途中で引き返すより僚機と共に行動することがリスクが少ないと機長が判断し、
そのまま飛行を続けたのだろう。目標上空に達した頃は、すでに姫路の街は炎に包まれて
いた。遅れて到着した先導機は本来の役目を果たせなかった。
 先導機(おそらく11機)はレーダーを使って目標に接近、同時に目視による修正を加え
ながら姫路上空に侵入していった。姫路の街は燈火管制で真っ暗であったから、目標を目
で確認できたということは何らかの光源が必要なはずである。月明かりではたとえ満月で
も不十分である。おそらく照明弾が使われたのであろう。ところが、第313航空団が照明
弾を投下したとはT.M.R. のどこにも記載されていない。高知を襲った第73航空団は20発
の照明弾を使用したことが明記されている。空襲当夜、照明弾がゆっくりと落下してくる
のを姫路市民が目撃している。不思議に思って調べてみると、他のT.M.R.でも第313航空
団が照明弾を使ったという記載はない。どうやら第313航空団は、照明弾使用の件をあえ
て明記しないのが慣例であったようである。他の航空団はちゃんと記載しているが、照明
弾は空中で燃え尽きてしまい、地上に損害を与えることがないこともあって、記載漏れも
司令部は大目に見ていたようだ。
 第3写真偵察戦隊の事前の偵察により、姫路の街は23門の大口径高射砲と24門の中口
径高射機関砲、5つの探照灯で守られていることがわかっていた。姫路上空へ次々と侵入
してくるB29を迎え撃つ対空砲火は主に中口径高射機関砲によるもので、他に大口径高射
砲による少ない連射、いずれも貧弱で不正確(meager,inaccurate)であった。この対空
砲火により1機のB29が損傷を受けたが乗員に死傷者はなかった。
 姫路の街が先導機による投弾で炎に包まれはじめていた頃、先導機に遅れること17分
後の1507Z(日本時間7月4日0時07分)、後続主力部隊の最初の機がこの火災を目印に
次々と機械的にE46集束焼夷弾を投下し始めた。その後1時間22分間にわたって延々とこ
の攻撃は続いた。目標上空10,100〜11,500フィートを飛行するB29の爆弾倉から落下
していくE46は、高度5,000フィートで解束するように信管が取り付けられていた。外板
とスチールベルトで束ねられていたM69 6ポンド焼夷弾(直径約8cm、長さ約50cm)は、
解束されると同時に、尾部に折り畳んで付けてあった麻布製リボン(ストリーマー)に着
火し、炎の尾を引きながら落ちていく。その光景は別名モロトフのパン籠(かご)とも呼
ばれた(ソ連空軍が最初に集束焼夷弾を使い、当時のソ連外相の名からこう言われた)。
 M69は、主に対日戦に使用された焼夷弾であった。それはヨーロッパ戦線が終結するま
でに開発が間に合わなかったことにもよるが、M69とほぼ同等の効果は炭化水素を燃料と
した別の焼夷弾を使用することで得られたので、ヨーロッパ戦線ではM69の開発を急ぐ理
由はなかった。
 ヨーロッパの堅牢な建物と違い、日本家屋は木造であるため、ヨーロッパ戦線で使われ
たM50などの焼夷弾では屋根を貫通する力が強過ぎた。M69の尾部に付けられたリボンは、
本体の落下速度を遅くすると共にM69の姿勢を安定させるためにも一役買っていた。その
結果、M69は日本家屋の屋根を突き抜け、屋根と天井の間に止まる程までに貫通力を弱め
られていた。
 B29の爆弾倉にM69を搭載するには単体よりも何本かにまとめるほうが効率的であった。
その形は正六角形の筒で、集束するのには最も適した最密充填形状である。ミツバチの巣
を思い起こせばイメージが湧くだろう。姫路に投下されたE46はM69を38発(19発×2段)
集束したものである。
 地上に落下したM69は、内部に充填されたナパーム(ゼリー状になったナフサネートと
パーム油の混合物に亜鉛、鉛、燐を添加したもの)を尾部から3秒間噴射するように設計
されていた。
 飛散したナパームは壁や家具に付着し4〜5分間燃え続けた。1つや2つなら人力で消火
することも出来たが、姫路市街地空襲に使用されたM69の総数は103,854発(E46に換算
すると2733発)であったから人々に為す術はなかった。
 T.M.R.によると第313航空団のB29に搭載されていたE46は合計2,824発、M69の数に
換算すると107,312発である。実際に使用されたM69の数との差である3,458発(E46な
ら91発)は故意に投棄(JETTISONED)されていた。
 何らかの理由で投弾されなかった爆弾や焼夷弾は、基地へ帰投する際の燃料消費を押さ
えるために投棄されることはよくあることであった(姫路空襲の場合、1機のB29は整備
不良が原因で焼夷弾投下に失敗)。
 どこへ投棄するかは臨機応変に決められた。海上に捨てられるよりも地上に投げ捨てる
ことのほうが多かった。どうせ捨てるなら何らかの被害を与えられるところへ落とす道を
選んだということである。関東地方を爆撃するB29の航路に近い静岡県浜松市は、最もこ
の災禍を被った都市であった。
 マリアナのB29爆撃部隊の編成は、グアムに司令部を置く第21爆撃機集団の下に前出の
5航空団があった(1945年6月26日当時)。1つの航空団(Wing)は、4つの群団(Group)か
ら構成されていた。さらに1つの群団は、3つの戦隊(Squadron)に分けることが出来る。
 1箇戦隊のB29配備機数は15機で、このうちの5機は予備機である。従って1航空団の総
機数は180機(含む予備機)となる。
 昭和20年7月3日深夜、第313航空団の1箇群団はM47A2焼夷爆弾を搭載し、2箇群団
はM69を内包した集束焼夷弾(E46)を搭載していた。
(One Group of the 313th Wing was to carry M47A2 incendiary bombs and 2
Groups were to carry clusters containing M69 bombs.)
 3箇群団の正規兵力は90機であるから、第313航空団の出撃機総数107機から90機を差
し引けば、17機の予備機が攻撃に参加していたことになる。T.M.R.からは、どの戦隊から
何機の予備機が飛び立ったかということは読み取れない。ここでは概算しか出来ないこと
を頭にいれて、とりあえず1機あたりの爆弾搭載数を計算してみよう。
 M47A2の重量は公称100ポンド、正味重量は70ポンドであった。M47A2はM69と違
い、いわゆる通常爆弾の形状をしていた。M47A2を効率よくB29に搭載するために、E46
がM69を38発集束していたように、T-19という集束装置によって6発づつまとめられて
いた。
 M47A2を一塊りにした理由は、目標に向けて最短時間で最大量の焼夷弾投下を狙った
ものであった。目標上空で爆弾倉から吐き出されると、直ちにT-19は外れてM47A2はバ
ラバラになって落下していった。
 第313航空団のB29が搭載できた爆弾の平均重量は、T.M.R.のWEIGHT DATA(重量デ
ータ)から一機あたり15,428ポンドであったことがわかる。これをM47A2の正味重量で
割ればB29一機あたりに搭載されていたM47A2の全個数が導き出される訳であるが、こ
れはあくまでも机上の計算に過ぎない。途中経過は省いて結果だけ述べると、一機あたり
220.4発積んでいた勘定になる。念のために作戦当日に積み込まれていたM47A2の総数
(6,438個)を220.4で割ってみると、約29.2(機)ということなり、これはT.M.R.の記述
とほぼ合致する。
 E46の重量は公称500ポンド、正味重量は425ポンドである。姫路市街地空襲の際、B
29に搭載されていたE46の総数は2,824発ということがT.M.R.から判明しているから、こ
れを元に今と同じように計算してみると、一機あたり約36.3発のE46が積み込まれていた
ことがわかる。E46の総数を36.3発で割ると、約77.8(機)という数値が出る。以上の
結果から推論していくと、M47A2を搭載していたB29の数は30機、E46の搭載機数は77
機として概ね間違いはなさそうである。
 ところで、爆撃当日、B29の姫路上空への侵入速度は一体どれ程の速さだったのだろう
か?この問題は爆撃精度に少なからず影響するはずである。スピードが速ければ速いほど
投弾のタイミングが難しくなるのは想像に難くない。
 侵入速度はT.M.R.にある爆撃航程と飛行時間の数値から簡単に割り出せる。姫路を襲っ
たB29の爆撃航程は41.5マイル、飛行時間は9分であった。1マイル=1.609kmとして計
算すると、答えは時速約445kmとなる。秒速に換算すると約124mとなり、もし投弾に
手間取ればあっという間に爆撃中心点上空を通過してしまうような速度である。
 この数字を元に、一機のB29に搭載されたすべてのM47A2およびE46を投下するのにか
かった時間を計算してみよう。M47A2の投下間隔は、野戦命令書によると100フィート
(約30m)、E46のそれは50フィート(約15m)と規定されていた。
 まず、M47A2から検討していこう。6,438発のM47A2は30機のB29に積み込まれてい
たとして、一機あたりの搭載数は214.6発。これらはT-19によって六発一組になっていた
から214.6を6で割ると、約35.8となる。小数点以下は四捨五入すれば、36組のM47A2
が積まれていたことになる。ここで注意するのは、B29には二つの爆弾倉があったから36
を2で割ることを忘れないことである。
 爆弾投下時には相当なショックがあったようで、機体のバランスを保つためにも2つの
爆弾倉から同時に爆弾は投下された。これはB29の爆弾投下の様子をとらえた写真からも
わかる。
 最初に一塊りのM47A2が投下されてから次の一塊りが落ちるまでにB29が動く距離が
30mである時、その投下間隔は30mということになる。それでは、時速約445kmのB29
が30m移動するのにかかる時間はどれ程か?。答えは約0.24秒となり、36組のM47A2を
すべて落とし終わるには0.24X17=4.08秒しか掛からない計算になる。(最初の一組は勘
定に入れない。)
 次に、E46の場合はどうなるか。一機に搭載されていたE46を36発として、M47A2と
同様に計算すれば、投下間隔時間は約0.12秒となり、0.12X17=2.04秒という結果が得ら
れる。
 爆弾投下は一瞬の出来事であったが、投下態勢に移るまでのプロセスは複雑であった。
まず、最初に基準となるものをつくり出さなければならない。その基準条件とは、等速度
水平飛行である。しかも、それは一定高度を保ちながら目標上空へ一直線に飛ばなければ
意味がなかった。所要時間としては約40から60秒で、距離にすればおよそ6〜7kmである。
 この間に、機体の傾きを修正したり、目標が目視できる場合はノルデン照準器を使って
M.P.I.に狙いをつける。爆弾が描く弾道を計算に入れて、目標の数キロ手前で爆弾は投下さ
れた。しかし、実際には地上からの対空砲火を浴びたり、日本軍機の迎撃を受けたりして、
B29にとっては危険な時間帯であるため、基準条件をすべて満たすことは難しかった。
 また、爆撃の後半時になると、燃え上がる家屋からの煙がたちこめて目標上空の視界は
悪くなり、同時に火災の熱による上昇気流も発生した。その中に巻き込まれれば、如何に
B29といえども、木の葉のようにあっと言う間に何百メートルもその巨大な機体は持ち上
げられた。
 第313航空団だけではなく、すべての航空団は、目標上空での滞空時間を70分以内に
圧縮するように求められていた。
(Wings will attempt to compress attack over target to within 70 minutes.)
出来る限り短い時間内で作戦を実行することは、味方の損害を最小限に押さえる為だけで
なく、日本側に攻撃に対応する余裕を与えないことを目的としていた。現実にはこの命令
を忠実に遂行することは困難であった。姫路の場合、圧縮度(Compressibility)は99分で
あった。
 投弾を終えたB29は、直ちに最低高度12,000フィート以上に上昇すると同時に、目標
上空域から速やかに離脱するために左旋回し、香川県高松市と坂出市の境にある大崎ノ鼻
(北緯34度23分、東経133度56分)へ向かった。ここは対空砲火を避けるための離岸地
点としてあらかじめ指示されていた場所である。
 基地へ帰投するために、最初の機が大崎ノ鼻上空に姿を現したのが、7月4日の深夜0時
14分、しんがりの機が通り過ぎたのは01時53分であった。この時点では、高松市はまだ
無事だったが、128機からなる第58航空団のB29が、刻一刻と高松市へ接近していること
に、誰もまだ気付いていなかった。
 最大の任務である爆弾投下を終えたB29は、再び広大な太平洋上を基地まで帰投して行
かなければならなかった。対空砲火や日本軍機によって被弾したB29があった時、その機
が硫黄島まで飛行可能な場合には、マリアナ基地へは戻らずに硫黄島に緊急着陸したが、
中にはそれまで持ちこたえられずに海上に不時着水するか、機を放棄しパラシュートで脱
出せざるを得ない場合があった。
 そうした状況を想定して、米軍は基地までの帰路上に緊急事態に備えた救助艇や潜水艦、
あるいはスーパーダンボと呼ばれる乗員救助用のB29を配置していた。これらは、作戦が
完了するまでずっとそれぞれの受け持ち区域で待機していた。
 スーパーダンボには非常用筏や食料、無線機などを積み込み、太平洋上を旋回しながら
出撃した全機が基地に無事帰還するまでずっと滞空していた。もし、スーパーダンボが漂
流する乗員を発見したときには救援物資を投下すると共に、救助艇や潜水艦にその位置を
報告し、彼らを救出に向かわせた。救助を求める乗員の位置が判れば、スーパーダンボな
らば30分以内、救助艇ならば3時間以内にその場所に駆けつけることが出来た。この陸海
軍共同の救助作業によって、マリアナからの日本本土空襲作戦全体を通して、83機のB29
から脱出した596名の乗員の命が救われた。
 テニアン北飛行場を飛び立ってからほぼ14時間が経過した032105Z(日本時間7月4日
06時05分)、姫路市街地空襲から戻った最初の機が基地に着陸した。帰還したB29の燃
料タンクにはあと1時間あまり飛行出来る量の燃料しか残されていなかった。中にはあと
30分で燃料切れになってしまい墜落寸前の状態だった機もいた。ぎりぎりの量の燃料しか
積まないという危険を犯してまでも、出来る限り多くの焼夷弾や爆弾をB29に搭載してい
たのだ。
 アメリカ陸軍航空軍は、東京空襲の時に、B29に装備されている機銃を取り外し、機
体が軽くなった分だけ爆弾の搭載量を増やすという執念を見せている。燃料不足からか4
機のB29(第313航空団)が硫黄島に着陸した。
 姫路の街に朝が訪れた。焼夷弾による猛火は、街を焼き尽くすことによって、その獰猛
な力は勢いを失っていた。炎に照らし出されたB29の巨大な機体が目に焼き付いて離れな
かったが、空襲警報解除のサイレンを聞き、次第に平静を取り戻し始めた姫路市民たちは、
夜が白々と明けるにつれて徐々に自分達の置かれている状況を認識していった。
 一面焼け野原となってしまった街の中心部を見下ろすかのように小高い姫山にそびえる
姫路城の無事な姿は、姫路市民の戦後復興に大きな励ましとなった。

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