3. ヨーロッパ戦線の動向

 イギリスは島国である。周囲を海に囲まれているおかげで第二次世界大戦で国土が戦場
になることはなかったが、空からの攻撃には脅かされた。イギリスはドイツによる爆撃に
よって手痛い打撃を受けた代わりにその報復としてドイツ領内を空襲した。
 ドイツはイギリスの報復に対する報復をし、イギリスはそのまた仕返しをするというよ
うに両国は徐々に泥沼状態に陥って行った。
 当初の爆撃目標はお互いの軍事施設に限定されていたが、雲が低く垂れ込めることが多
いヨーロッパ特有の天候にも災いされ、昼間精密爆撃の戦果は予想を下回り、目標への命
中精度も決して高くなかった。
 やがてイギリス、ドイツの双方は効率の悪い精密爆撃路線を捨て、攻撃目標を軍事施設
から一般市街地へと変更して行くことになる。
この作戦変更の直接のきっかけは、攻撃目標を正確に見つけられなかったドイツ軍機によ
るロンドン市街地への誤爆であった。ロンドン市民に多数の死傷者が出たこの空襲ついて、
時の英国首相チャーチルは、ドイツによるイギリスの都市への無差別爆撃の開始と受け取
った。彼はすぐさま報復の為にベルリン空襲を決行した。
 イギリスはドイツに比べて空軍力において劣っていた。イギリス空軍が動員できた爆撃
機の数はドイツのおよそ十分の一であった。また、ドイツがイギリスを爆撃する際には、
占領地の北フランスから飛び立てば良かったが、イギリスがドイツ本国を爆撃するにはそ
の六倍の距離を飛ばなければならなかった。
 イギリス空軍による予期せぬ首都空襲に、ヒトラーの面子は丸つぶれとなった。ドイツ
国民に対して空襲の心配は全くないと大見得を切っていたヒトラーは、目標を軍事施設か
ら市街地へと転換することを余儀なくされた。こうして一般市民を巻き込む本格的な無差
別爆撃の火蓋は切って落とされたのである。
 お互い敵対関係にある国を爆撃するということは戦略的な側面からだけでいうと逡巡す
ることなく決定することが出来た(最重要課題である道義的問題にはあえて目をつぶると
して)。
血で血を洗う爆撃合戦は双方の理性を麻痺させるには十分であった。理性のたがが外れた
両国は、人命尊重の原則を蔑ろにし、人命無視の魔道へと足を踏み入れていった。
 ヨーロッパ大陸では多くの国が互いに陸続きで国境を接しあっている。こうした環境は、
連合軍の戦争遂行に複雑な影を落としていた。なぜならナチス・ドイツはその勢力を単に
自国内に留めることはなく周辺の国を浸食し占領地を拡大していったからである。
必然的に、連合軍は同盟国内に進駐しているナチス・ドイツ軍を攻撃しなければならない
事態が起こった。
 1942年、ヨーロッパ戦線へ遅れてやって来たアメリカは、陸軍航空軍創設以来の教義
である「軍事目標に対する精密爆撃」を頑なに守ろうとしていた。ルーズベルト大統領自
身、都市に対する無差別爆撃には反対意見を表明していた。
ナチス・ドイツ占領下のフランスを攻撃する際、アメリカ陸軍航空軍が最も恐れたのは大
量のフランス人一般市民を巻き添えにすることであった。海軍や陸軍の一部としてではな
く、独立した軍の確立を目指していた陸軍航空軍の上層部は、アメリカ議会およびアメリ
カ国民の顔色をいつも気にしていた。爆撃によって同盟国の一般市民から犠牲者が出るこ
とで非難されるのを最も恐れていたのだ。
アメリカ陸軍航空軍がイギリスとは一線を画して軍事施設に対する精密爆撃に固執してい
た理由のひとつはここにあった。だが、軍事目標を叩くことで敵の戦争遂行能力を麻痺さ
せ、敵を降伏へと追い込むことが出来るというアメリカの信念はやがてもろくも崩れ去る
ことになる。
 イギリスが身をもって体験したように、ヨーロッパの天候はアメリカが精密爆撃を実行
していく上で大きな障害となった。加えて、ヨーロッパ大陸を次第に奥地へと進み、ドイ
ツ本国を爆撃するようになると、ドイツの迎撃機によるB17あるいはB24の損失率が徐々
に上昇していった。長距離を飛べる護衛戦闘機の欠如が損失率上昇の最大の要因であった。
イギリスに基地を持つアメリカの戦闘機は航続距離の短さ故にドイツを目前にして基地へ
Uターンしなければならなかった。護衛戦闘機がいなくなり裸同然でドイツ領内へ送り出
された爆撃機は自らの命を機に装備された火器で守らなければならなかった。護衛戦闘機
の航続距離の短さを見越していたドイツ軍機は満を持して迎撃態勢に入ることが出来た。
小回りの利くドイツ軍機の猛攻の洗礼を受けて、爆撃機の撃墜あるいは損傷機数は増えて
いった。アメリカ陸軍航空軍の基本的教義の屋台骨を揺るがしかねない事態に遭遇し、ヨ
ーロッパ戦線にやって来た頃のアメリカの自信は次第に失われていった。
それでも、アメリカは公式には教義を変更しようとはしなかったが、現実に直面する困難
によって教義の柱に大きなひび割れが入ったことはまちがいなかった。
辛うじて、アメリカは、ヨーロッパ戦線では柱の亀裂を何とか取り繕うことが出来たが、
やがて崩れ落ちた柱は日本国民の頭上に容赦なく降り注いでいった。
 イギリスとドイツによる無差別爆撃の応酬は、それぞれの国民に甚大な人的損害を生み
出したのみならずヨーロッパの文化財破壊の危機をももたらしていた。互いに相手国を地
上から抹殺するほどの勢いで爆撃を繰り返す両国には双方の文化財に対して特別な配慮を
する気など頭の片隅にもなかった。また、独自の精密爆撃路線を歩むアメリカでさえ、意
図的ではなかったにしても、結果的に文化財の破壊に荷担したことになった。
 1943年9月8日、イタリアは枢軸国の中で最初に連合国側へ白旗を掲げた。イタリアが
降伏に踏み切った背景には連合軍によるイタリア各地への爆撃が少なからず影響していた。
シチリア、ナポリ、イタリア南部への攻撃によって、鉄道など物資の補給路、陣地などが
破壊されたが、それだけではなく攻撃目標に近接する住宅地にも被害は及び一般市民にも
犠牲者が出た。度重なる爆撃にイタリア国民の間には次第に厭戦気分が広がっていった。
 1943年7月19日、ローマ上空に現れたアメリカ陸軍航空軍の爆撃機は、市内にあるサン
ロレンツォ駅とその操車場、リットリオ鉄道操車場を爆撃目標としていた。連合軍はこの
攻撃によってイタリア国内に駐留するナチス・ドイツ軍への物資補給路を断つことを狙っ
ていた。
同時に、首都ローマを爆撃することによってイタリア国民に広がっていた厭戦気分にとど
めを刺し、あわよくばムッソリーニ政権の崩壊を導くかもしれないという心理的効果も期
待していた。
 空襲されればされるほど逆に戦意が高揚する国もあれば、他方、敢え無く戦意喪失に陥
る国もある。さしずめ、前者は日本、後者はイタリアと言ったところか。この辺は国民性
の違いと言えるかもしれない。
 連合軍の思惑通りに行けば、ローマ爆撃は歴史に残る英断となるが、一歩間違えれば、
この作戦は連合軍にとって不利に働く危険な賭けと言う側面を持っていた。それは、イタ
リアが持つある特殊事情が深く絡んでいたのである。
 ローマは「永遠の都」とも呼ばれるように様々な歴史的、宗教的建造物が集中する都市
である。また、ローマ市内には世界一小さい独立国である「バチカン市国」がまるで飛び
地のように位置している。連合軍首脳部が最も頭を悩ませたある特殊事情とはこの「バチ
カン市国」の存在に他ならなかった。
 全世界のカトリック信徒の頂点に立つローマ法王の居所である「バチカン市国」は聖域
として神聖視されていた。万が一この聖域を犯すことがあれば、如何に錦の御旗を持つ連
合軍といえども全世界から囂々たる非難を受けることは間違いなかったし、ナチス・ドイ
ツはこの機をとらえて格好の宣伝材料として連合軍の蛮行を言い立てるだろう。
 アメリカが戦争を遂行していく上での基本理念は、『アメリカ軍将兵の命は何を差し置
いても最優先されなければならない』であった。これは、広島、長崎に原爆を投下した理
由としても唱えられた。『もし、原爆投下がなければ、戦争は長引き、アメリカによる日
本本土上陸作戦が決行され日米双方に多大な犠牲者が出たに違いない。原爆は広島、長崎
市民の命を奪ったが、結果的にはそれよりも多くのアメリカだけではなく日本人の命をも
救ったのだ』。
 多くの人命を救うためには少数の犠牲者は厭わないというアメリカの言い分は詭弁と言
えよう。たとえたった一人でもアメリカの将兵を助けるられる可能性があり、それを実現
することが出来る手段を持っているのなら、その手段は行使されなければならないと考え
たアメリカの基本理念に則れば、ローマ爆撃は危険を冒してでも実行する価値がある作戦
であった。すべて覚悟の上でアメリカ陸軍航空軍によるローマ爆撃は決行されことになった。
 作戦実行に先立って、米英合同参謀本部は、ローマ爆撃に参加するすべてのパイロット
にローマの地理を徹底的に頭に叩き込むように命令した。問題の「バチカン市国」は絶対
爆撃禁止とし、とりわけラテラノ聖ジョバンニ、聖パオロ、聖マリア・マッジョーレの各
教会の詳しい位置を地図に記載し全員に周知させた。
 ルーズベルト大統領は、ローマ法王に対して『連合軍は「バチカン市国」の中立をあく
までも尊重し、戦争遂行において可能な限りバチカン関連の宗教施設の安全に配慮する』
と伝えた。
加えて、米英合同参謀本部は、ローマ市内の爆撃目標の軍事的重要性をことさら強調し、
万が一最悪の事態が起きた場合の非難の矛先を少しでも回避しようと画策した。
 一通りの予防線を張り終えた連合軍は、7月19日午前11時よりB17によるローマ爆撃を
開始した。精密爆撃にこだわり続けてきたアメリカの本領を発揮するときが来た。
ローマ市上空は快晴。爆撃目標の鉄道施設と「バチカン市国」を識別するには格好の気象
条件だった。B17が投下した爆弾はほぼ予定通りの戦果をあげたが、如何に精密爆撃とい
えども限界があった。アメリカ陸軍航空軍は暗黙のうちに承知していたことだったが、目
標近くの住人に犠牲者が出ただけでなく、目標から約1,000フィート離れた聖ロレンツォ
大聖堂の一部が破壊された。
 この空襲によってイタリアの戦争継続意志は薄らぎ、これ以上の首都破壊を免れるため
にイタリア政府はローマを無防備都市にすることを連合軍に提案した。
これを受けて第二回ローマ空襲は一時延期されることになった。しかし、連合軍はイタリ
アの提案に疑念を抱いていた。
 当時ローマにはナチス・ドイツ軍が駐留しており、空襲を延期することでナチス・ドイ
ツ軍に態勢を立て直す時間的余裕を与えはしないかと連合軍は危惧した。結局、これ以上
無用の混乱を引き起こすのは得策ではないと判断したナチス・ドイツ軍はローマから撤退
していった。
 9月8日、イタリアは降伏した。本来ならば、これでイタリアに対する攻撃は停止される
べきところである。しかし、連合軍対ナチス・ドイツの戦闘は未だ継続中であった為、イ
タリア各地に潜んでいるナチス・ドイツ軍に対する攻撃は停止されることはなかった。
イタリアの文化財は開戦以来およそ2年に渡って戦火にさらされてきたうえに、イタリア
降伏後も戦禍に巻き込まれる危険性が以前にも増して存在していた。
 アメリカは一方では文化財を破壊したが、他方では文化財を守ろうとする勢力が国内に
存在していた。
1942年秋、アメリカ考古学研究所のウィリアム・ディンスムーアは、最高裁判所判事ハ
ーラン・ストーンに対してイタリアに於ける文化財破壊の危険性回避についてルーズベル
ト大統領へ書簡を出すことを依頼した。
 ルーズベルト大統領は、この問題の討議を米国務省および米英統合参謀本部に委ねた。
その結果、1943年8月20日「ヨーロッパに於ける美術的、歴史的遺跡の保護救済に関する
アメリカ委員会」(ロバーツ委員会)が設立された。
 穿った見方をすると、文化財破壊の当事者であるアメリカ陸軍航空軍が裏で民間人に働
きかけて委員会設立を企てたとも考えられる。文化財破壊の張本人が文化財保護を言い出
すことはわざとらしく聞こえるし、偽善的にもとられかねない。民間機関に協力するとい
う形を取れば、世界に向けていい顔が出来るうえに文化財保護策に呪縛されることもない。
つまり、逃げ道を用意しておくことが出来る訳である。これが見当はずれだとしても、軍
上層部は戦争という非常時に於いてでさえ、文化財を保護する姿勢を見せることは軍の名
声を得るためにも充分利用価値があると判断したことは間違いない。ロバーツ委員会の設
立はお互いの利害関係が一致した結果と見ていいだろう。
 ヨーロッパ戦線でのロバーツ委員会が最も力を注いだことは、文化財の所在地を記した
イタリア全土の地図を作成することだった。その数は都市図にして160枚もあった。
ロバーツ委員会はイタリアの各都市を三つのグループに分けていた。ひとつは、連合軍
地中海方面航空軍司令部の許可なく爆撃してはならない都市としてローマ、フィレンツェ、
ベネチア、トルチェーロを挙げている。
もうひとつは、さほど重要な軍事的目標がない場所で、出来ることなら爆撃は回避される
べき都市としてラベンナ、モンテプルキアーノなど。
最後は、いかなる制限もなく無条件で爆撃を容認していた都市としてピサ、シエナ、ベロ
ーナなどであった。
 ロバーツ委員会に協力的なアメリカ陸軍航空軍が撮った各都市の偵察写真は、爆撃機搭
乗員に指令を与える際に活用された。また、アメリカ陸軍航空軍がイタリアを爆撃すると
きにはロバーツ委員会の助言を参考にした。
 しかし、ロバーツ委員会は軍の決定事項を翻すことが出来るまでの権限を持っていなか
った。軍事的必要性が不可欠であると判断された場合には、たとえ法王庁が所有する土地
であっても攻撃は容認された。

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