十一月十八日、家康は茶臼山に登り大坂城を偵察した。
秀吉が築城した大坂城は鉄壁の守りを誇っていた。これを見た家康は長期
戦を覚悟し、各所に対城(むかいしろ)を築き、濠を掘るよう命じた。
この動向を悟って、二十六日城内から四方八方に銃撃が加えられた。その
報復として二十七日徳川方から大坂城へ銃弾を浴びせた。
十二月になって、戦闘はますます激しくなっていく。徳川方はじわじわと
包囲網を狭めていった。
策士である家康は、硬軟両方の手を使って秀頼を降伏させようとした。
激しい戦闘の裏では文書によって和議を勧告した。しかし、なかなか回答
がないので、京の商人後藤庄三郎光次に回答を促す文書を持たせて城内へ
差し向けた。その結果、双方の文書の行き来が始まった。かすかな希望の
光が見えたかに思われた。
だが、豊臣家の頭領秀頼は意地でも首を縦に振るはずはなかった。
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