五月八日早朝、秀頼と淀君がまだ粳櫓内で生きているとの知らせが秀忠に
届く。秀忠は櫓を囲み警戒した。治長と守之は母子の助命を請った。秀忠
はこれを家康に伝えた。家康は、秀頼の乳母の二位局を櫓内から呼び、中
の様子を聞いた。二位局によると家臣や侍女合わせて三十余人がおり、秀
頼は赤地錦の鎧直垂(ひたたれ)に同じく化粧袴、梨子地緋縅(ひおどし)
の具足、吉光の太刀、鎬(しのぎ)藤四郎の脇差を身に着けているという
答だった。秀忠は茶臼山の家康のもとへ行き、秀頼たちの処遇をどうする
か尋ねた。家康の答は秀頼たちを自決させ、将来に禍根を残すなというも
のだった。せっかくの治長らの助命嘆願も聞き入れられず、遂に命運は尽
きたとして母子に覚悟を決めることを勧め、櫓に火を放った。
秀頼、淀君はともに自刃し、毛利豊前守勝永が秀頼を、萩野道喜が淀君を
介錯し殉死した。三十余人の家臣や侍女も全員殉死。この時、秀頼23歳、
淀君49歳であった。
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