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1. 昭和の大修理の発端
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池田輝政による築城以来、姫路城は風雪に耐えて幾星霜。歴代城主たちの絶え間ない
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努力によってなんとか持ちこたえていた姫路城でありましたが、遂に根本的な修理が
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必要な状態に陥っていました。
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昭和4年に国宝保存法が施行され、文部省は世界に誇る日本の代表的木造建築物とし
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て法隆寺と姫路城を総合的大修理すると決定しました。これをうけて、大蔵省は法隆
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寺の総合的保存工事予算を認め、昭和9年4月から工事は開始されました。一方、姫路
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城はというとなかなか予算が認められずにいたところ、同年6月20日、西の丸タの渡
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り櫓からヲの櫓にかけて石垣および櫓が豪雨によって崩壊するという事態が発生しま
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した。豪雨が引き金になったとはいえ、建物の保存修理を検討している時間的余裕は
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もはやなかった。そこで、急遽西の丸修理計画が立てられました。これが「昭和の大
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修理」のきっかけとなりました。姫路城の「昭和の大修理」は、一旦姫路城を解体し
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てしまい、再び組み上げるという気の遠くなるような難工事でした。もうこれは単な
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る修理と言うよりも「昭和の築城」と呼んだほうがいいかもしれません。
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世に言う「昭和の大修理」は、昭和31年から39年にかけて行われた大天守および小
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天守、それらを結ぶ渡り櫓の修復工事のことを言います。
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実際には姫路城の修理は昭和9年の西の丸修理を皮切りに、菱の門、いの門、帯郭櫓、
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その他多くの門や櫓が修復され、最後の締めくくりとして「昭和の大修理」が行われ
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ました。
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